畔吉・諏訪(すわ)神社

 

住所・・・上尾市畔吉835
御祭神・・・建御名方命(たけみなかたのみこと)

 

氏子地域・・・畔吉

 畔吉は、古くは畔牛・阿世吉とも称した。康暦二年(一三八〇)の「鎌倉公方足利氏満御教書」(円覚寺文書)に「足立郡畔牛郷内」とあり、当地の開発が中世までさかのぼることをうかがわせる。
 創建年代は明らかでないが、口碑によれば、当社は元々、江戸期に名主を務めた井原家の氏神であったという。当村が属した石戸領の惣鎮守は川田谷(かわたや)村(桶川市川田谷)の諏訪神社であることから、その分霊を勧請したものとも考えられる。
  『風土記稿』によれば、井原家の先祖は井原土佐守政家と名乗り、岩槻城主太田氏房に仕え、天正十八年(一五九〇)の落城に伴い、当地に逃れ土着したというが、徳星寺蔵の文書に落城前に居住していたとする記録もあり、土着の時期は判然としない。『郡村誌』によれば、当社は、寛保元年(一七四一)に時の当主井原弥市により徳星寺に附され、以来、徳星寺が別当となった。徳星寺は、弘仁年間(八一〇~八二四)に弘法大師により開基されたとする古刹で、永禄六年(一五六三)に宗旨を真言宗から天台宗に改めた。
 神仏分離後、当社は無格社となり、明治十五年八月二十六日に本殿が再建された。明治二十二年に当村は大石村の大字となり、明治四十年四月二十五日に字中(なか)の村社氷川神社をはじめ同大字内の九社を合祀し、村社に昇格した。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の祈年祭、四月の春祈祷、十月のお日待ち、十一月の新嘗祭の年五回である。そのうち、四月の春祈祷には「源太・万作踊り」が、十月のお日待ちには「ささら獅子舞」が奉納され、共に上尾市指定無形民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」「稲荷社」「八幡社」「水神社」「琴平社」「弁財社」を祀る。