壱丁目・愛宕(あたご)神社

 

住所・・・上尾市壱丁目346ー3
御祭神・・・軻遇突知命(かぐつちのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)


氏子地域・・・壱丁目


 当地は『風土記稿』に「検地に大谷郷一町免とあり、則この地のことなり」とあるように、かつては大谷郷に属し、壱丁目は一町免の転である。
  一町免とは中世の新補地頭の得分である免田を示すという。また、地内にはかつて宿次(しゅくなみ)の小字名があり、昔松山(現吉見町)からの馬継ぎのあった所と伝える。
 社蔵の文書には、「明和ニ亥年(一七六五)二月吉辰奉納ノ古釼(剣)トアリ」との記述が見えるが現在は所在不明である。また『風土記稿』では壱丁目の神社について「氷川社 村の鎮守なり、西光寺の持、愛宕社 村民の持」と載せている。
  明治初年の社格制定に際して、氷川社が無格社とされ、愛宕社が村社に列せられた。その後、合祀政策に基づき、当社を向山の神明社へ合祀する命令が発せられたが、明治四十一年に社掌(宮司)福田弥吉・氏子総代橋本桂介・松澤久五郎の三名が「上申書」を村役場に提出して合祀を免れた経緯がある。
 拝殿の内部には、明治から昭和にかけてのおびただしい数の「拝み絵馬」や「向かい天狗の絵馬」が掛けられていて、当社に寄せられた厚い信仰を物語る。
  本殿は小規模ながら、江戸中期の見世棚(みせだな)造りで貴重であり、かつては麻疹(はしか)を治す神様として近郷に知られ、生後間もない赤子を本殿の下をくぐらせ、子供の無事成長を祈念したものである。
 かつての当社は、境内の一角に樹齢五〇〇年を超えると推定される杉の神木がそびえ、鬱蒼とした雑木林の中に一段高く盛り土された所に鎮座していたが、平成十八年(二〇〇六)に上尾道路建設のため、東側の隣地である現在地に社殿等一切を新たに建立し移転遷座した。
 境内社に「稲荷社」「雷電社」「天神社」「八雲社」「琴平社」「機神」「草神」」を祀り、鳥居東には地内より集められた「庚申塔(青面金剛)」を祀っている。